2017年02月12日

大村湾 二島(ふたしま)外伝 再び。

先日ここ(ブログ内リンク)で 二島の事ちょっと書いたんですが
今日はその続きを少し。

その前に
先日書いた部分 引用しますね。

引用。

この二島のカタチについて面白い資料があって

 参議院会議録情報 第015回国会 水産委員会 第21号
 昭和二十八年三月十一日(水曜日)午後一時三十九分開会

って言う 当時の農林大臣も出席している委員会の議事録で
「日本国に駐留するアメリカ合衆国軍隊の行為による特別損失の補償に関する法律案」
と言う項目に「大村湾の二島」が出ているのです。
(因みに他の議題は
 ○以西機船底びき網漁業及び運用
 かつお・まぐろ漁業の許可等についての
 漁業法の臨時特例に関する法律案(内閣送付)
 ○水産政策に関する調査の件(水産政策一般問題に関する件)
 併せて3つの議題について話し合われています)

それによると 
駐留軍が戦後から昭和27年6月までこの二島を攻撃演習に使用し
辺りの漁場が壊滅的な打撃を受けたことによる補償を受けられるかどうか
なんてことが話し合われており
以下実際の記述のコピーアンドペースト
「そこにどんどん実弾を撃ち込んだためにその島は崩れて周辺にすつかり泥が流れ込んで、
従来の岩、或いは真珠貝の発生地であるとか、
なまこの発生地はすつかり泥に覆われて駄目になつてしまつた」
コピペ以上
で、結局なんだかんだで補償は無理だから見舞金を出すってことでなんとか・・・
と言うような流れ。

この演習で島の真ん中が崩れ、今のようなひょうたん島の形になった。
と言われているようです。
何と言う歴史。

ただこの二島という呼称がいつからのものなのか定かにならなかったので、
例えば江戸時代から「二島」と呼ばれていた のだとしたら
もともと「だいたいこんな風な形」をしていたのかも知れません。
(この件ご存知の方おられましたら是非ご教示いただけますよう)

引用以上。

で、
すこし調べてみることに。

長与町史には、二島への攻撃演習・漁業補償 の件には全く触れられておらず、
大正7年の資料として
漁獲減少の為転業するもの多し。大村湾での専業の漁業従事者は「34戸」である。
との記載あり。その際優良漁場として「二島周辺」が挙げられている。
ただし「二島」が当時からそう呼ばれていたのか或いは今の呼称を適用したのか
は、この時点では不明。
因みに
漁獲高
ナマコ   9550貫
アンコウ  4500貫
サバ    3500貫
アジ    2250貫
との記載もあり。(一貫は3,75s)

で、もうすこしあれこれしてみると
「二島」の名称についての地図の資料が。

1905futasima.jpg
明治38年の地図に確かに「二島 (嶋二)」と。

ただ
明治時代にはすでに「二島」と呼ばれていたことは判明したものの
この「二島」と言う名前の由来を考えてみると、
今の印象のようなふたこぶのひょうたん島だったから「二島」になったのか
明治の地図から読み取れるように
大きな島と小さな島のふたつの島からなっているから「二島」
と呼ばれるようになったのか、
結局肝心なところはぼんやりとしたまま。

今の地図と比べて、黒島(嶋黒)との位置関係が微妙で
2017futasima1.jpg
明治の地図がどれだけ正確なものかがいまひとつわからないけれど、
ふたつの地図を比較してみると
島のカタチ、ずいぶん複雑だったのものがすっきりしてしまっているし、
2017futasima.jpg
標高もすこし高かったことがわかる。

ほぼ7年に及ぶ射撃演習で
(そう言えばこの演習が、米軍によるもの なのか 占領軍によるもの なのか
 補償の話に際して そんな議論もあったらしい。)
島のカタチが変わってしまった と言うのはどうやら確かなようで、
大村湾に浮かぶこんな小さな無人島にも、様々な歴史があるのね
と 改めて。

長与町の町史は、資料も多く記述も具体的で
あれこれしていてもとても面白くとても興味深くて
つい時間を忘れてしまうほどでした。
翻って琴海町の町史ときたら・・・ えっと、このことについてはいずれ(笑)。

肝心なところはわからないままだったけれど
諸々なんか面白かった!
ただ、
ワタシのとほほな文章じゃいまいちこの面白さが伝わらなくて、無念・・・。

posted by たみ at 03:34| 長崎 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 半島情報。 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする